井上 円了
朝、目覚めると有るべき場所に枕が無い。私達なら睡眠中に知らないうちに自分で動かしたと考える。が、明治時代の人々はこれを妖怪「枕返し」の仕業として恐れていたのである。
このように明治時代、不可解な事件の原因はもののけや妖怪、神様の祟りとして決着がつけられていた。闇の世界には文明開化も及ばなかったのだ。まさに「触らぬ神に祟りなし」である。しかし触った男が一人。自らを「不思議庵主」と名乗り、妖怪退治を決意した人、井上円了である。
井上円了は幕末の安政五年(一八五八)に現三島郡越路町の慈光寺に長男として生まれた。幼少より学問に秀で神童と呼ばれ、新潟学校第一分校(長高)に入学した。在学中に今も長高の生徒会として存在する「和同会」を演説と討論を目的に組織した。卒業後は慈光寺の本山である京都の東本願寺の学校に進むがその類稀なる頭脳に教師は驚き、京都に留めておくのは惜しいと東京大学へ留学させた。東大の予備門から文学部哲学科へと学ぶ中で彼が出会ったのは西洋の哲学だった。宇宙、世界、人間の根本原理を探求する文明開化の新しい学問である。彼は学生たちの先頭に立ち、貪るように西洋哲学を吸収し、文部大臣が、喉から手が出るほど欲しい人材と言うほどの青年学者となった。そして彼はまた仏教界を担う指導者としても期待されていた。しかし、彼はどちらの道も選ばなかった。
明治の日本は富国強兵を旗印に近代化を進めていたが、それは学問の分野でも同様であった。医学や経済学などがじゅうしされ、哲学は「世間無用の学」とみなされていた。しかし円了は日本が近代国家の仲間入りを果たすには哲学こそが最も重要と考え、哲学の普及に努めた。しかし、そのためには大きな課題があった。哲学を専門に学ぶ場が東大の哲学科のみに限られていたことである。このため円了は誰もが皆分け隔てなく哲学が学べるよう二十九歳のとき日本初の哲学専修学校・哲学館を創立し、民衆への教育に熱を入れた。だが、またそこに大きな壁があった。西洋哲学に反する人々の迷信、妖怪への恐れである。彼はこれらが世の中にはびこっている限り近代への夜明けは遠いと嘆き、人々の恐れる妖怪と戦わねばならぬと決意するのである。
円了がまず手始めに挑んだものは当時日本中に蔓延した一つの妖怪現象、コックリさんである。そのあまりの流行ぶりに警察が禁止令を出したほどの騒動であった。コックリさんのお告げで妻が離縁された例もある。彼は各地で行われているその方法を調査し、実態を採った。発端は伊豆の下田。難破した貿易船のアメリカ人が伝えたものだった.西洋ではテーブルターニングといわれる降霊術である。そこで彼は老若男女をあつめ実験をした結果、これを一種の催眠状態と考え、心理学と運動生理学を研究しついに正体を見極めた。それは予期意向(思い込み)と不確筋運動(無意識下での筋肉運動)であった。つまり呪文によって催眠状態に陥った人は思い込みに筋肉を支配され自ら手を動かしてしまっていたのである。事実、筋肉の発達した若者の方が著しい反応を示した。
このようにして円了は、哲学や宗教、自然科学の知識を駆使して様々な妖怪の正体を探っていった。
さて哲学館創立から一年後、海外に渡り欧米を視察した円了は、哲学館を大学へと発展させることを決意し新校舎を造るが一度目は暴風雨、二度目は火事により失敗する。そしてようやく校舎は完成、専門学校令により哲学館は哲学館大学へと昇格した。その二年後彼は心身の不調により学校から引退する。(翌年、哲学館大学から東洋大学に変わる)
彼のその後の一生は社会教育のための全国巡回に費やされた。それは教育、学問、哲学の啓蒙のためでもあったが、迷信、妖怪を払拭し人々の恐怖を解き放つ旅でもあった。そして大正八年、六十二歳の時講演中の中国で客死。しかし円了の残したものは、それぞれの形で今も生き続けている。
(イガラシ)
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