堀口 大學
明治二十五年(一八九二)一月八日、一人の詩人が生まれた。その子は、父親が東京帝国大学法科大学に在学中であった事と、住まいが赤門前にあった事から「大學」と名づけられた。
まず、現代詩の生みの親と言われ、詩壇に限らず、昭和の文芸活動にも大きな影響を与えた、堀口大學の生涯をたどってみることにする。
父、九萬一はその後外交官試験に合格し、朝鮮に赴任した。二十七年、残された一家は父の故郷である長岡に移り住んだ。翌年母 政は、大學と花江の二児を残し、二十三歳の若さで病死した。時に大學はまだ3歳であった。後に彼は幼くして別れた母への憧憬を作品に残している。
母の声
母よ
僕は尋ねる
耳の奥に残るあなたの声を
あなたが世に在られた最後の日
幼い僕を呼ばれたであろうその声を
三半規管よ
耳の奥に住む巻貝よ
母のいまはの
その声を返せ
(人間の歌)
彼は長岡中学校(現長高)在学中、病気がちではあったが、大いに文学に親しむ日々を送ったという。
四十二年に中学を卒業し上京、新詩社に入門し、与謝野鉄幹、晶子夫妻に師事する。同門には佐藤春夫がいた。翌年入学した慶応大学文学部では、永井荷風の感化を受けた。新詩社時代に大學は文学的素養だけではなく、良き師、良き友を得たのである。
四十四年、メキシコ赴任中の父の招きに応じて、大學は十九歳で初めて外遊の途についた。そこで彼はベルギー人の継母の元でフランス語を学び、父の手引によりフランス詩に目覚めることとなった。彼はこの時から仏語の詩を母国語に訳すことを始めたのである。
ベルギー、スペイン、ブラジル、ルーマニアと続いた海外生活は、大正十二年大學が三十三歳の時に終わったが、外遊中に出版した訳詩集「昨日の花」(大正七)、詩集「月光とピエロ」(同八)に続いて、コクトー、ラディゲ、アポリネールの存在を日本に紹介した「月下の一群」(同十四)、川端康成、横光利一らの新感覚派を生んだ、ポール・モーランの小説「夜ひらく」の翻訳など、著訳書は三百点を超える。
昭和三十二年、芸術院会員。三十三年、詩集「夕の虹」で読売文学賞受賞。そして、四十五年、文化功労者として顕彰。五十四年、文化勲章受賞。
昭和五十六年(一九八一)、八十九歳で死去。
皆さんが堀口大學という詩人について知っている事といえば、長高の卒業生で、第二校歌の作詞者、という程度で、堀口先生の詩どころか、詩自体ほとんど読まない人が大半ではないでしょうか。堀口大學について記事を書けとの命を受け、先生の詩や翻訳詩を見ていくうち、私はみなさんに少しでも堀口先生の新しさ、面白さを知ってほしいと思うようになったのです。そのためには、いたづらに、文芸史上の功績を書きたてても仕方ありません。実物にほんの少しでも触れてもらうのが一番です。
シャルル・ボードレールのL'Homme et la Merの一部を堀口以前の、日本翻訳詩史上の傑作とされる上田敏訳詩集「海潮音」所収のものと、堀口訳でくらべてみます。
こころ自由なる人間は、とはに賞づらむ大海を。
………… (上田訳)
上田訳には格調高い美しさがあります。…………が、
自由な人間よ、常に君は海を愛するはずだよ!
………… (堀口訳)
堀口訳には若々しさ、瑞々しさがあります。これが彼の現代詩の生みの親と言われる所以なのです。
彼が追求したのは、「言葉は浅く、意は深い」詩でした。彼の詩は優しく、時に官能的です。きっとあなたの世界を広げてくれる事でしょう。
(静御前)
[一面トップ]
[二面トップ]
[山本 五十六]
[堀口 大學]
[井上 円了]
[三面トップ]
[四面トップ]
|